• ogata

これって、役に立つことなの?

 最近、あることから、以前考えていた以下のようなことを思い出しました。

 数年前のできごとです。


 生徒の会話が聞こえます。

「ねえ、日本史って何か役に立つの?」

「さあ、立たないんじゃない」

私は一瞬凍りつきます。受験生同士の会話です。大学受験の日本史や世界史の学習量は、時期が迫ってくると、それこそ気が変になるほどのものです。そうした状況下にある受験生ならば、半ば投げやりな言葉が出てくるのも致し方ないことかもしれません。

 私自身、この問題について漠然と考えていたことがありました。「受験勉強をやって、これがこの先の人生で何の役に立つのだろう」「数学なんか受験が終わったら一生使わないし」などなど。多くの人が一度は浮かべる思念ではないでしょうか。  

 けれど、この問題について、私自身はある時期、回答にたどり着いて明快です。

 役に立つか立たないかではなくて、役に立てるか立てないか(あるいは生かすか生かさないか)という、生き方の問題なのだということです。「役に立つかどうか」という問いは主語が「日本史は」であり、対象に答えを求めるものです。他方、「役に立てるかどうか」という問いは主語が「私は」であり、自身のゆく末に答えを求めるものであるという点で、これは立派な生き方の問題です。 

 どんな形であるにせよ、自分が吸収したことどもの「断片」は(当座、学んだことがらの多くは本人にとって「断片」にしか過ぎません)、いつかどこかでつながっていくもので、それがさらに大きな束となって人格形成の肥やしとなる、というものなのでしょう。思うに、そのようにして「生かす」ことができるかどうかは、自己に対する誠実さと感性の問題です。 

 私は、指導者として、受験勉強で「枯れ尽きてしまう」べきでないと思うのです。もう、いやでいやでしようがないというところまで追い込んでしまったら、あとは解放を願うしかありませんし、受験は必ず(長くても1~2年で)解放されるものです。追い込まれ解放されたその時、受験勉強で学んだ「断片」は拾い集めて束ねるものではなくて捨て去るものとなり果てます。枯れ尽きてしまってはもったいない。その後「断片を生かす」ところまでいかなければそれは重大な自己投棄です。冒頭の「日本史なんて役に立たない」という発言は、自己の成長を放棄してひたすら解放を願う発言として私の耳に響き、私を凍らせたのでした。「役に立たないのは(役に立てられない)私の負けだ」。

 そうした無駄骨をしないためのささやかな抵抗の一つが、「受験を楽しむ」ということなのだと思います。